網状言論F改(東浩紀 編著)Database
当サイトは 以下の著作に関するdata baseである
網状言論F改(東 浩紀 編著)、青土社、2003年 1月発行、ISBN:4-7917-6009-3
著者たち・目次たち
「網状言論F改」に関する情報募集中 メールの宛先      
網状言論F改(東 浩紀 編著)に関するネット上の言説たち
以前の情報たち  網状言論Fサマリー:DocumentsOnWeb 公開シンポジウム(2001/9/16)発表要旨
2003/03/07
森番日記
■2月15日(土)

 なんとか間に合いそうな時間に池袋に着きました。今日のもう一つの用事(?)とは、7:30から西武イルムス館で開かれるトークイベント「網状言論F改―Repure」を聞きに行くことでした。この企画は、今年に入ってすぐに刊行された『網状言論F改』(青土社)を記念して開かれたものです。この本には、一昨年の晩夏、東さんのサイトで行なわれていた仮想討議をもとに公開で行なわれたトークイベント「網状言論F」が収録されている他、東浩紀さん・小谷真理さん・斎藤環さんの鼎談や伊藤剛さんや永山薫さんの論稿も加えられています。おまけに(?)表紙は西島大介さんのかわいくってフシギな絵です。

 今回のイベント参加者は、司会の東さん、報告者の鈴木謙介さん(都立大の院生)・佐藤心さん・西島大介さん(わあ!)、そしてパネラーの斎藤環さんです。テーマはいちおう「オタク」、素材はアニメ・ギャルゲーほか諸々のオタク的現象なのですが、その濃さからして時間が足りないだろうなあ・・・と思っていたら、案の定足りませんでした。ルーマンのシステム論を援用したらしい鈴木さんの社会学的分析や、レジュメを用意して具体的に説いてくれた佐藤さんの報告、西島さんの創りたてで湯気が出ている(!?)ビデオ作品も含めて、もっとゆっくり考えながら聞きたいものばかりでした。

 たとえば、東さんと斎藤さんのオタクをめぐる視点の違い、集団としての現象で見るか個人の人格で見るか、外側からとらえるか内側からとらえるかの違いなども明らかになりました。が、それだけに視点の違いで解消してしまえないところで、じっくり討議していただけたらなあと思いました。

 また、オタクに詳しいとはいえない、「萌え」たりもしないモリスとしては、斎藤さんがラカン理論で読み解いてくれるとすっきりはするのですが、そうやって理論の応用のように現象が読み解かれてしまうのも、なんだか口惜しい気がします。いっそのこと、徹底してラカン理論で読みきってしまって、それでもなお読みきれない部分がオタクにあるとしたら、それは何かを取り上げてほしいと思いました。

 鈴木さんがルーマンのシステム論を背景に読み解く場合も、同じような小気味良さと、心残りを感じました。モリスの場合は、自分に関連のあるところから(それも解説を手掛かりにしながら)ルーマンを読み始めたばかりですから、なにかいうだけの知識も論拠もないのですが・・・。それでも、オートポイエーシスを社会学に組み込んだルーマン理論の、生命体のようにシステムをとらえる方法が、作動しているシステムの解読に有効でとても魅力的であることだけはわかります。

  それだけに、それで読めてしまうとしたら、なんだかやっぱり残念・・・。もちろん、鈴木さんはそんなことはせずに、あくまでもルーマンを援用するにとどめて、新しい切り口を提示していたと思います。システムという言葉を使わなかったのも、システムになりきらないところでとらえようとしていたからかな? 欲をいえば「環境/システム」という視点から他のシステムとの区別をはっきりさせるべく、オタクを生かしつづけているシステム生成のコードを抽出してみるような試みもしてもらえたらなあと思いました。

  などと、生意気な注文をつけたりするのも、それぞれの方が振るう剣が良く切れて鮮やかだからです。が、相手はオタク・・・切っても切れない、なかなか手ごわいようです。


2003/02/22
Every Precious Things
03/02/04
■「網状言論F改」(東浩紀編著)
気になってたので購入してみました。・・・・・・・・・ごめんなさい、意味が全くわかりません(涙)すっかり頭が悪くなってるのかなぁ。昔はこういうのももうちょっとすんなり理解できてたような気がします。仕事柄、実学よりの本しか読んでないからかなぁ・・・・悔しいので分かるまで読み返してみます(笑)

裏モノ日記
15日(土)

 そう言えば、以前私がこの日記に書いた『網状言論F改』批判を批判している、あ るサイトを見つけた。私の斎藤環氏発言への批判に対し、
「鼎談での斎藤環の発言への批判はどうかなと思う。当時もサイレントマジョリティ であったろう、第一世代(つわもの揃いと思われがちな)の、にもかかわらず薄いオ タクの実感の証言としてあの発言は受け取られるべきなのではないか」
 と発言している。この発言者は1980年生まれということだが、少なくともオタ ク草創期である1972年(発言中で言及されている『海のトリトン』の放映年)に おいて、アニメオタクが“濃い、薄い”の差が別れるほど多数存在し、薄いオタクが サイレント・マジョリティとして機能していたという、当時を知る者からすれば噴飯 ものの状況把握(たぶん、オタクでなくてもアニメ、ゲーム、マンガ等にいくらでも 接することのできる現状からの憶測なんだろうが)を元に語っているわけだ。若いか ら無理もないとはいえ、この人には70年代における、大学を受験する年齢になって アニメを見る、という行為の反社会性というものをイメージできるだけの“歴覚”能 力に徹底して欠けているのである(もうひとつ言えば、この斎藤氏の発言はどの文脈 からとっても、個人的体験の証言ではなく、状況についての発言であり、その“でか い作品が一つあってあとは極小の作品がちょぼちょぼというメディア環境”という指 摘が誤りであることは、ヤマトやトリトンの放映年に他にどういう作品が放映されて いたか〜例えばトリトンが放映された1972年時には、マジンガーZ、ど根性ガエ ル、ガッチャマン、ムーミン、デビルマン等、今なおリメイクされ続けている作品が 目白押しに放映されており、これらのどこをとれば“極小”と表現できるのか〜を、 ちょっと年表でものぞいて確認する作業を厭いさえしなければ一目瞭然である。こう いうことを言う人、またはそういう発言を弁護をする人というのは、学問の基礎であ る“資料にあたる”という行為を嫌う怠け癖の持ち主でしかないだろう)。こういう人物にまできちんとわからせようと筆を尽くすことは、クラスの最も出来の悪い子にレベルを引き下げた授業を行うに等しい行為なのではないか。そこのレベルの子にわからせることでクラス全員が理解できればいいが、上位の子たちは、授業の退屈さに早々に興味を失ってしまうだろう。ササキバラ氏のおたく論の目指す懇切丁寧さが、そのような結果を生まぬことを切に望む。

オンライン書店bk1 書評
職業・呪文・アイテム
須藤晴彦
2003/02/13
★★★★
オタクについての議論を中心に据えたシンポジウムのレジュメ的内容であるこの著作を舞台に、RPGの主人公たちがそれぞれの能力を用いて論を進めていく。そんな例えが浮かんでしまうのもまたオタクという言葉の力だろうか。
 哲学者という職業の編者がジャック・デリダという呪文を用いてオタクという魔物と戦う。時には、漫画やインターネットといったアイテムがその戦いの助けとなる。しかし戦いの最大の助けはやはりパーティーの仲間達だ。斉藤環氏は医師という職業でジャック・ラカンという呪文を身に付けている。持っているアイテムには編者と共通のモノもあればそうでないものもある。ときにパーティー編成を変えながら、彼等は現象とも存在とも決めかねないその魔物をとらえようとしているのだ。
 パーティー編成が変わればパーティー内で交わされる言葉も微妙に変わってくる。かつて魔物側についていた人間をパーティーに加えればそこで使われる言葉にもまた変化が表れる。このような、それぞれ異なる職業・呪文・アイテムを持つ人間達でも通じ合う言葉を使いコミットしていくさまそれ自体が、この著作内で繰り広げられる議論の内容と共に極めて現代的であり、副題の「ポストモダン」状態を表しておりエキサイティングだ。
 エキサイティングは加速する。火付け役は鈴木謙介氏という職業社会学者によるここでの書評であり、そのような書評が書けるこのサイトの作りである。
 映画で観たことのあるシーンに現実で出会う、そんな日々を僕たちは過ごしている。ゲームで見たことのある関係を、この著作で、そしてこの著作から広がる現実で僕たちは見、実際そのような関係の中で過ごすことになる。

オタクはアイデンティティなのか
鈴木謙介
2003/02/04
★★★★
 本書は「オタク」を巡る本である。しかしこの本で「オタクとは何か」が明らかにされている、と期待してはいけない。むしろこの本で執拗に語られているのは「オタクとはいかなる問題なのか」ということである。それを巡って二つの問題軸が交差するのが本書の構成だ。一つは、本書の元となった「網状言論」でも主要な対立となった斎藤環氏と東浩紀氏の対立。これはラカンを巡る哲学的な問題として理解された感があるので非常に難解だが、要するに「存在としてのオタク」(斎藤)か「現象としてのオタク」(東)かという対立だ。もう一つは本書の後半に収録された東、斎藤そして小谷真理氏との鼎談でテーマとなるジェンダーおよびセクシャリティの問題だ。この鼎談では斎藤と小谷がオタクのセクシャリティを分析することに意義を見いだすのに対し東は、現在のオタクはデータベース的な萌えパーツの組み合わせを動物として享受しているのだからかかる分析は無効だと主張する。
 この対立が意味するものは何か? それは「オタクというアイデンティティはあるのか」という点について、実は世代によってかなりの開きが生じているということだ。読者は後半の鼎談を読んで、オタクのセクシャリティやアイデンティティについて言及し、東の「オタクとしてのアイデンティティ」を開示させようとする斎藤・小谷に対して、東が「逃げている」ような印象を持つかもしれない。しかしながら東本人が「自分がオタクであるかどうかはわからない」と述べるように、東より下の世代のオタクにとって「オタクというアイデンティティ」の中身などそもそも問題ではないのだ。
 社会学を専攻する私の立場は、世代的なものを差し引いても東のスタンスにかなり近い。社会学的には「オタク」とは「ギャル」や「不思議ちゃん」と同じ、コミュニケーション上の自己提示戦略の一環に他ならない。つまりアイデンティティではなく、自分が人から見られたいと思うイメージの一つに「オタク」というリソースがあるだけなのだ。そういう見方をすればギャルもオタクも自分がイメージするリソースのコスプレをやってるだけだとも言える。どの立場に与するかは読者次第だが、そもそもこういう対立が存在するということを知る上でも、本書はいい機会を与えてくれるだろう。

(鈴木謙介/東京都立大学大学院博士課程 http://www.socion.net/papers/

オタク系批評の基盤になりうるか
鬼島 空
2003/01/17
★★★
 東浩紀や大塚英志の対談など、オタク批評を読んでいて、ずっと気になっていたことがある。この二人を筆頭に、オタク系文化人は、圧倒的に男性ばかりだ。オタク系バックグラウンドを持つ女性は実作者には多いが、評論家はほとんどいない。東といった男性オタク系文化人から産出される言説の量が圧倒的なために、実数的にはオタク男性を下らないはずのオタク女性の存在がかき消されているかのように思われて、わたしは嫌だった。「ギャルゲー」や「でじこ」を語って、それがオタク文化の代表のような素振りであるのは、東に見えるオタク世界がそういった「萌え」ソフトで閉じているからで、まさしく見通しの悪いオタクコミュニティの実態の反映であるように思える。東はこの本のなかで、正直に、「自分はやおいはよく知らない」と言っているが、知名度と自分の言葉を発表できる力を持ち、オタク系文化を社会一般の問題に開こうとしている東が、やおいを「自分は知らない」で済ませているのは、些か害悪であるとさえ思う。

 だから、この本でわたしが評価できると思ったのは、東浩紀を中心として、斎藤環、竹熊健太郎といった従来のオタク批評のサークルに、小谷真理が加えられ、オタク女性側からの発言の回路も開こうとしている点である。しかし、その取り扱い方は十分とはいえない。「オタク」をオタクの男女ともを含めた一般的な名詞として使っていたり、また、「オタク/やおい」と分け、「オタク」を男性のみを指す名詞、「やおい」を女性のみを指す名詞と分類したりと、「オタク」という言葉の用法が混在しているのである。「man」「人類」がときどき女性を含んだり含まなかったりする、それと同じブレをこの本では「オタク」という言葉が、持っているのがおぞましい。きっと、そういう世界から逃走したくて、オタクの女性はオタクになるのに。わたしの理解では、実際の「オタク」「やおい」という言葉の使われ方としても、これは間違っている。女性のオタクは、自分を「オタクである」と言明し、「オタク」という言葉を当然男女とも含む言葉として使うし、「やおい」は作品分類のための言葉であって、人を指す言葉ではない。「わたしはやおいである」と発言するオタク女性は多分存在しないから、「オタク/やおい」という二項対立は変だ。

 この本のなかで、小谷は、「ギャルゲーはセクシュアリティの話ではない」とする東に対し、「セクシュアリティを重要じゃないといって除外して、それを別の言葉で語っているのは、ホモソーシャル的だ」と批判し、東はそれを半ば認めている。だが、それは、「オタク論の系譜をつくりあげるためには、仕方がない」と開き直る。でも、本当にそうだろうか。「やおい」は、男性オタク文化を考察した後に、付随的につけくわえられるようなものではなく、それ自体が、オタク文化の中心問題のひとつであるとわたしは思う。だから、ひとまず女性オタクの存在は焦点化しないでオタク論を書いた後に、やおいはつけくわえればいいという東のスタンスは、オタク論の基盤を作ろうとするなら戦略的に誤りだと思う。ポスト・エヴァンゲリオンの今、もはや「萌え」にはセクシュアリティは関係なく、「データベース消費なのだ」という東の主張どおりだとしても、オタクにセクシュアリティの問題がかかってくるのは、少なくともやおい文化側では、1995年以降も変化しているわけではない。性別にかかわらず「オタク」という共通性質があるのか、それは斎藤のいうようにセクシュアリティに関することなのか、そして男女のオタクでどのように違いが生まれるのか、あるいは男性オタクと女性オタクとは全く関係がなく、別に語られるべき存在なのか、といった問いに先に答えてほしいとわたしは思う。そしてその後、男性オタク文化の現在を焦点化してほしい。

2003/02/16
充分に生きているだろうか?
2003/01/26 (Sun)

本は東浩紀編「網状言論F改」を読む。これは、面白い!東浩紀はもちろん、齋藤環、そして小谷真理がそれぞれ物を書き、そして三人が鼎談してるし、面白くないわけない。面白いほど齋藤と東はかみ合ってなくて、でもそれぞれうなずける部分とうなずけない部分があったりして、久しぶりに興奮して本を読んだ。とは言え、その他の筆者の論文は総じてつまらないし、読むに値しないって思うけど。

network styly *: 本関連。 Archives

買った本

また忘れていたのだった・・

網状言論F改 東浩紀 編
http://www.t3.rim.or.jp/~hazuma/prof/books/mojo.html

永山薫、斎藤環、伊藤剛、竹熊健太郎、小谷真理といったかたがた。

WEBでやってたメーリングリスト議論(斉藤環の「戦闘美少女の精神分析」をめぐって)と、シンポジウムをまとめたもの。

動物化するポストモダン以降のオタク論なら、これ!って感じなのかー。いやーそうなんだろうかー。いやはや。今回は、まあ、でもいろんなひとの意見が混交してて、とても面白い。斉藤X小谷X東のプロレスチック鼎談はふしぶしで爆笑。まあ、ほんとプロレス的におもろいだけかな・・とも思ってしまうけど。

今度、hirokiazuma.comで告知されてるけど、

網状言論F RePure
斎藤環、佐藤心、鈴木謙介、西島大介とのトークショー
2月15日、19:30-21:30
第8回 リブロ・コミカレ特別セミナー
池袋西武イルムス館8F コミュニティ・カレッジ、東京都内池袋

ってイベントがあるらしいー。お。鈴木謙介さんだ。彼のいう、「オタクからオタへ」っていう社会学視点を挿入してくれたりするともっとこのへんはおもろいかなーと。

Kennyささきのrhizomeな日乗
2003年02月10日(月)
ついでなので『網状言論F改』についてもうちょっと書いちゃおう。
この本がなんで真性オタク系の人たちから敬遠されているのか、そういう系の人の“ネット上の言説たち”をつらつら眺めているとどうやら、 思想ヲタ なコンテクストを受け入れがたいということではないのかと。
私なんかは一時期、哲学・思想系の本を読み漁っていたので、内容はほとんど忘れてしまったけど(笑)予備知識はそれなりにあるのでこういう本でもわりとすらっと読めてしまうのですよ。
そういう経験から真性オタクの人たちに言えることがあるとすれば、「この本を書いてるのはその筋では権威のある人たちだけれども、 そんなに深刻に受け止めなくてもいいよ 」ってことかなぁ。無責任だけど(笑)。
オタクっていろんな角度から光を当ててみないと真実が見えてこないものだと思うので、マンガやアニメや美少女ゲームに造詣が浅い(と思われる)人たちが言ってることでも「そういう見方もあるのか!」ぐらいに受け止めて面白がっておけばいんじゃないかなぁ。

ところで、このページのさらにリンク先にあったリブロ池袋店のトークイベント「 網状言論F RePure 」って誰だよ、こんなネーミングしたの!やっぱり東タン?(;´Д`)
思わずツボって爆笑しちゃったじゃないですか。

2003/02/14
hentai Japanimation
2月1日(土)  伊藤剛
って意外と頭良いなあ。普通に頭の良い人って感じがする。
 『網状言論F改』を少し立ち読みした感想。
 なんか色んなところで叩かれているこの本だけれども、『動ポモ』がそうでもなかったのにそうなってるのは唐沢俊一の後ろ盾があるからカナ? あるからカナ?
 女のオタクをやおい云々に突っ込むんならギャルゲーはPC中心云々にも突っ込めよ、みんな。あと、テクニカルタームが多出した文章に「難しくて分からない」とか抜かすの禁止。
 唐沢俊一自身について言うのならば、鼎談での斎藤環の発言への批判はどうかなと思う。当時もサイレントマジョリティであったろう、第一世代(つわもの揃いと思われがちな)の、にもかかわらず薄いオタクの実感の証言としてあの発言は受け取られるべきなのではないか。唐沢俊一の薄いオタクに対する差別意識は時に看過し難い。そこに医者とライターの社会的格差が絡んでくるのがまたややこしいのだが。
 とりあえず、中心的な、濃い人物だけを点描しただけでオタク全体が語れるはずもないだろうに。その時放映されてるアニメを全部見て、スタッフの名前もほとんど暗唱して、DVDも月ン十本の単位で買って・・・なんて奴をしかアニオタと呼べないはずはあるまい。そういう濃さを様々な事情で達成できていない人々こそがオタクの多数派なのは自明だろう。サブカルチャー・オルタナティブカルチャーはメインカルチャーから見た時に圧倒的に少数派で、で、その少数派の代表の意見がメインカルチャー内で流通する事でメインカルチャーは少数意見も圧殺しない健全さ、を主張できるわけだが、その時サブカル・オルタナの代表者たちが彼らの文化圏のサイレントマジョリティを抑圧しているとしたら。
 要はサバルタン・スタディーズって奴ですな。文系の学問的問題意識は、思いのほかまっとうである。というか抑圧されたトリビアルなものどもに優しい目を向けるのって唐沢俊一の本来の芸風ではなかったかなあ。唐沢俊一は”薄いオタク”を再発見すべきだ。

遅れてきた青年 2月の日記

2月7日

 『網状言論F改』は伊藤剛と竹熊健太郎の個人原稿だけ読んだ。他のものは自分を正史の側に位置付けようとする政治的策略があまりにあからさまに見えてしまい、三行読んだだけで吐き気がした。突っ込みのいないコントを見ている気分が。どうせ政治的にやるなら、肯定的レビューを書いてくれる人に根回しするくらいの周到さは見せてくれと思った。でも、伊藤剛と竹熊健太郎の文章は浮ついたところがなく、落ち着いて考えながら読めた。

たとえば、僕の知るあるアニメライター氏は、何か作品と自己の関係から自分の固有の意見を紡ぎ出すような言説を「サブカル」と呼んで退けていた。

「網状の言論を解きほぐしていくこと」(伊藤剛)

定言命法(「〜〜は素晴らしい」)と仮言命法(「もし〜〜の立場に立ったとしたら、〜〜は素晴らしい」)が対立しているのではなく、【A】「定言命法と仮言命法が対立していると思う人」【B】「そうでない人」がいるということなのかなあ、と思った。主観と客観が対立しているのではなく、「主観と客観が対立していると思う人」と「そうでない人」がいるというか。

定言命法と仮言命法の使い分けが可能で境界線が引けると思ってしまう人には、そうでない人が「あえて定言命法を用いている」かのように見えてしまうのだけど、必ずしもそうとは限らないわけで。

「サブカルだと思われたらどうしよう」とか思っている時点で、泥沼にはまる。肯定したらその通りだし、否定したら自分の固有性を主張することになりかねないし。

固有性を主張することに、後ろめたさを感じるのはどうしてなのか自分の胸に聞いてみるのがいい気がしてきた。端的には「本当に唯我論が正しかったらさびしすぎる」なのかもしれないけれど、その結論はまだ早い。 

とか書いてたら無性に悲しくなる。


2003/02/11
書評 網状言論F改  Sankei Web(産経新聞社)
心の時代に反旗ひるがえす

文化批評家 切通理作

 〈オタク〉をめぐる対談集である。すでに編著者・東浩紀による『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)という意義深いオタク論があるが、本書はその姉妹本と言ってよく、主に東の観点をめぐって複数の論者が異議をぶつけ合う場となっている。オタクがなにに「萌(も)え」ているのかが大きな焦点になっており、そのさまざまな解釈は楽しい。

 ただ評者自身は『動物化するポストモダン』に自分の「萌え」趣味との違いを超えた刺激を感じていた。評者はライターとしてここ十年特撮・アニメ評も書いているが、エンターテインメントの受け止められ方が物語としての読まれ方から、一瞬一瞬の「気持ちよさ」に酩酊(めいてい)するありようを再確認する流れになったことを実感している。とりわけ電子ゲームの普及以降、ユーザーはフィードバック・ループのごとき快楽の端末となったかのようだ。これは東の指摘する、欲求に正直な「動物化」の状態といえるのではないだろうか。

 ゲームのエンディングがプレーヤーの選択によって変わるように、同じ基盤から分岐した異なる展開が何層にもステージングされた世界観は、もはや一つの結論から逆算される物語性や歴史性に回収されないという点で現実とメタフィジカルだ。あるいはそれは物語の体裁すら取っておらず、ゲームやコミック、アニメの境を越えてキャラクターの外見的な相似にのみ基盤を持ち、どれが定本か問うのは無意味だ。こうした共有性が東の指摘する「シミュラークル」でありその集積が「データベース」になるのだろう。

 ところで東はなにゆえオタク論の枠組み、定義づけにこだわるのだろうか。それはオタクという行為が個人の内密性への傾斜であるがゆえに自己愛的で、しかもそれが消費社会のデータベースの中で踊らされている状態であるという現状を直視するためだろう。東のオタク論は心地良い消費物の中で「生きる意味」さえも補填(ほてん)されてしまう「心の時代」への反旗の書だ。オタクを自認しない読者も他人事と思っていると足元を掬(すく)われるに違いない。

 (東浩紀編著/青土社・一四〇〇円)


"裏"日本工業新聞!!
【2月8日】
間もなく誕生日を迎えよーとしているアストロな少年の微妙に媚妙なイラストを表紙に配したその英断をもって誉め讃えたい斎藤環さんの新刊「博士の奇妙な思春期」(日本評論社、1800円)は、内容においてもおたく系の文化の状況から渋谷池袋あたりを闊歩する今時の若者の心情からライフワークとするひきこもりへの言及からと多岐にわたるテーマに関する文章が収められていて、若者に関する評論集であると同時にちょっとした「斎藤環関心空間」的な本にもなっている、よーな気がする。若者だけあってそこから切っても切り離せないセクシャリティの問題に、結婚しなさいと言ってくる母親へのウザったさに似た忌避と嫌悪の感情を惹起しかねない可能性を気にせず正面から挑んでいるのにも感心、ウザく感じる歳でもなくなったからそう思えるのかもしれないけれど。

 おたくの男にやおいの女が対立項っぽく扱われているのが微妙に気になる所で、そこかしこからここにひっかかりを見る声が「網状言論F改」と同様に出てきそーだけど、そーゆー見方がなされうる面もあるからこその言及だろーし、立場として「われわれに可能な役割があるとすれば、それはもちろん『おたく文化』の批判者、否認者たることではない。そうではなくて、むしろ積極的に彼らにかかわりつつ、『抵抗』をものともせずに解釈を投与し、外部からの彼らの創造性を挑発し続けること」(56ページ)に重きを置いていることもあるんで、異論反論を与えつつもだったらどーゆーことなんだ、ってことを考えていければ良いけれど、頭回らないだよなー、最近、歳食って。

 興味深いのは第9章「心理学への欲望、あるいは対抗の倫理」のラストの部分。あれやこれやでコメントを出しまくっては事件にある種の「わかりやすさ」を一般の人に与える役割を果たしている心理学者なり精神分析医に関する文章で、とりあえずは「『こころの専門家』はいかに身を処すべきなのか? 一切のコメントを忌避して口をつぐむのか。こんな認識などなかったかのように、素朴にコメントを出し続けるのか。あるいは、あえて消費を加速しつべく道化を演じ続けるという、八〇年代的な身振りを反復するのか」といった問いかけを自らにしていて、そこから導き出した結論の、「さしあたりの戦略は、コメントする際、『精神分析』に依拠し続けることである。その立場から発言し続ける限り、すべての人が私の発言を真に受けることはありえない」とゆー言葉が持つ、「精神分析」をわかりやすい物語の補完材料としかとらえていないマスコミとそして受け手への諦めとも取れるニュアンスが、わかりやすさに収めがちな情報の出し手として身に響く。

 「物語よりは事実が大事」なことにマスコミが改めて気づくことと、そうなったマスコミの上で真実の番人に戻ることが可能ならそれに越したことはないけれど、わかりやすい物語が集団への同調意識も加わってより求められる方向へと世の中が加速している今の状況では真実の大事さなんて訴えよーにも届きはしないだろー。残る希望は受け手も精神分析から「常に一定のいかがわしさ」をちゃんと感じ取ることだけど、最近はそーでもないからなー、送り手はマジになっちゃってるし受け手はいかがわしさを見ないよーになっちゃってる。今や香山リカさんはいかがわしさの記号ではなくわかりやすさの象徴でしかなかったりするし。こーなれば斎藤環さんいはよりいかがしさをその言動に込めてもらうしかない、ってことはつまりテレビに出るときに表しの鉄腕な少年の格好をしてもらうこと、だったりするんだけど。やりません?


【2月7日】 来週に迫った「網状言論ZZ」、じゃない「網状言論DETH&RIBERTH」、な訳もない「網状言論オンリー・ユー」、な訳もない「網状言論RePure」のチケットを買いに池袋の「リブロ」まで行き頼んだら出てきた整理券番号が58番で、人気者の勢揃いなイベントだからすでにして満員御礼札止めも覚悟していた気持ちがちょっとだけスッポ抜け。まあ間際になって買いに走る人が大勢出るのがイベントってものだからこの週末とかにはきっと、結構な数がはけるんじゃなかろーか。メンバーは東浩紀さんに斎藤環さんに佐藤心さんに西島大介さんんい鈴木健輔さんとゆー、斎藤さん東さんを除けばそこはかとなく知れて来た人たちで、今顔を見ておくともしかすると30年後ぐらいに自慢できることになるのかも。文化面か社会面かは分からないけど。

 その斎藤環さんは「文学界」の連載「文学の兆候」で「ひきこもり文学は可能か」ってテーマで我らが滝本竜彦さんを大フィーチャーしてて、正直おせーよ、とか思ったけと口には出さずにいよいよ文藝なところへと広まり始めた滝本さん人気のこれからに激しい期待感を抱く。いっしょに佐藤友哉さんも取り上げられていて、内容については立ちでも買いでも読んでもらうのが良いんだけど、最後に「終わりに」で書いてある文章がなかなかに凄絶で感動的、なかなか次の出ない2人に対して「君たちは書き続けなければいけない。君たちはその投瓶通信に等しい作品を、それでも冥大洋へと当時続ける必要がある」って感じに。ポリスの「孤独のメッセージ」なんかを引き合いにして強烈なメッセージを贈っている。「誰でも孤独であるという点において孤独ではないのだ」とは歌詞の中の言葉だけど、それが届き聞き入れられることを切に願う。村上さんも頑張って。

じゃんぽけ
2003年02月01日(土)
『網状言論F改』/東浩紀編(青土社)
 たくさんの人間がいろいろ書いているので、今更僕に何を書けと。正直は話、僕はこの本が嫌いじゃないんですけどね。オタク文化に興味があり、本の内容を鵜呑みにせず、これまでに『動物化するポストモダン』、『戦闘美少女の戦闘分析』、WEBで繰り広げられた『網状言論』を読んでいるなら…って、この時点でかなり読者が絞られてしまう気がするのですが…まぁいいか。というか、他の人の話をちゃんと聞きなさい。自分の意見をぶつけるだけじゃ駄目って、先生に習いませんでした?

U-kiのメモ帳
偶然たる必然はない(03/02/07)
「Kanon」でハイデガーの話をしていた人は論文消してしまった。やっぱ反響があったんだろうか?「あゆは消えてねぇ!ってゆうかちゃんと存在してるだろぉが、ボケ!俺はあゆエンド以外認めてねぇんだよ!」とかいう抗議が来てしまったのだろうか。俺もそんなにちゃんと読んでなかったのでもう一回読みたかったんだけど。一行しか触れてなかったがあの論旨なら「ONE」の方が適当だったと思う(あれは主人公の存在が本当に消えるしな)。やっぱ論文って発表してなんぼだろ?オタクじゃない学校の先生に見せるだけじゃ何も生まないだろ。あー、基本的に学問のイカン所は学者によってしか仮説が評価されないという閉鎖性だよな。それでいて誰の評価も受けてない「ゲーム脳」とかが流布されてるわけで。『網状言論F改』が唐沢俊一に「ゴミデータを元にしたゴミ本」とか云ってボコボコにされてたけど(裏モノ日記(1/15))、オタクがオタクによってしか分析・評価されないんじゃ、「ギルド」のようなモノさえ存在していない現状では洗練されるはずもなく(オタクを洗練してどうすんだという話もある)ただ閉塞があるのみである(蓋をして置け、という話もある)。あの本はなんら結論も出してないし正しいことも云ってないと思うけど、まとめられ、晒され、評価を受けることで価値はあると思う。なんか擁護してんのか批判してんのか分からなくなったけど

2003/02/10
Kennyささきのrhizomeな日乗
2003年02月02日(日)

#2 網状言論F改

(東 浩紀 編著、青土社 刊)読了。
オタク評論のニュー・リーダー(なんじゃそりゃ) 東浩紀 や斎藤環 *1 らによる、オタクについての「ネット→ライブ→書籍とメディアを横断して展開された妄想と闘争の記録。」(青土社Webより)
一読しての感想は「オタクって量子力学 *2 みたいなものだよなぁ」と思いました(笑)。現象を観測すると観測者が介入してしまうことになり真実の姿が見えなくなる、ってアレね。

しかし、真性オタクな人は“外部”からのこういった言及は嫌うらしいのですが、私なんかはこういう本は面白く読めてしまうので真性オタクではないのでしょうね。(とかいう)
村上隆 の一昨年あった 個展 なんかも面白く観れてしまったしなぁ。


*1: 斎藤氏のオフィシャルWebサイトは存在しないようなので、代表作へのリンクでお茶をにごしておきます(^^;)→『 戦闘美少女の精神分析

*2: 一般には シュレーディンガーの猫 の問題がよく知られてますね。

2003/02/07
U-kiのメモ帳      (メールによるサイト情報提供に感謝します)
ごほん、ご本(03/01/16)
今日の読書
『網状言論F改』ポストモダン・オタク・セクシュアリティ(青土社)東浩紀・編著
いやぁ、やっぱオタク論は面白い。しかも下半身の話となればなおさらだ。出版社が青土社でソフトカヴァというのも 意外だが西島大介がカヴァ絵というのも意外。面白いは面白いがなんら結論が出ているわけでも真新しい解説が載ってる わけでもないので万人にはオススメできない。俺もまた「萌えとはなんぞや?」をやってくれるのかと思ったが、この本を 読んでも「萌え」が何かはわからないのだ。しかし面白いといえば鼎談(東浩紀×齋藤環×小谷真理)で異様に「Air」 を推しまくる東氏の姿(笑)。これは生で聞いてもきっと笑っちゃうな。「自慰行為と性行為の間には無限の差があるん だよ!」とか俺が腰を振りながら唾飛ばしてそうなこと云ってたり。いや、たぶん俺とは論調は違うんだろうけど(笑)。 東氏のオタク・レベルというかスタンスは非常に俺に近い。本気で「萌え」てはいなくて盛り上がってる集団の側で 「なぜあんなにみんな萌えてるんだろう?」と小首を傾げつつも盛り上がってる雰囲気は共有してるという。年齢が近い せいかと思ったけど俺とSF研の後輩もそんなに年は離れていないのでやはり立ち位置の問題だと思う。無論かみつく 相手の齋藤氏のさばき方が抜群なので盛り上がってるわけだが。やっぱ「ラカン派」とかの勉強しなきゃ駄目かな、とか。 オタクとペドの分離もなかなか。宮崎駿をこき下ろしてるところは爆笑。「宮崎はオタク嫌いなんだよ!しかもロリコン!」 みたいな。小谷さんの「オタクはイデオ・サヴァン」発言とかもスゲェ。伊藤剛氏の意見もなんら答えを提示しているわけ ではないのだが非常に興味深い。一番「萌え」に肉薄しているのではないか。対して永山薫氏はやっぱ年齢が離れてるせい かいまひとつ云ってることが響いてこなかったなエロ漫画論は良かったが。竹熊さんはまぁ、岡田斗司夫とかと同じオタク 第一人者の意見って感じでまぁ、それなり。
強いとか濃いとかどういう表現でいったらいいのかわからんがとにかく俺は十人中十人が認めるほどのオタクではある が俺が認めるところの「ハイレベル・オタク」ではない。部屋中がオタクグッズでまみれているわけでもないし放映してい るアニメは全部見ているとかもない。オタクな事柄に対して鼻が利くわけでもなく、コミケや同人誌屋に行っても途方にく れるばかり。いくらネットに耽溺していても何がどう盛り上がっているかはもはや俺の独力ではつかめない状況だ。まして や一番肥えてる情報の肥溜めである2chもコミケ同様、どこをどう眺めていいやらわからない。しかし優秀な、というか オタク・アンテナの発達した後輩がいるおかげでこの本に出てくる作品はメディアを問わず触れていたりする。後輩はア ニメ・漫画・ゲームのみならず「エコアイス」だの「カーレンたん」だの の萌え情報の「押さえどころ」をキチンと俺に伝えてくれる(それは最速でなくても良い)。というかオタクの王道をいっ てる人間が近くにいるおかげで膨大なオタク・メディアに触れて消費することなくオタク・トレンドに触れることができて いるという状況はかなり恵まれてるなぁと再認識した。いや、それが人間として幸せなことなのかは謎だが(苦笑)。とい うわけで、最新オタク情報は常に支給されているのであとの下半身反応解説は俺にまかせてくれって感じですな(嘘)。まぁ、 所詮俺の感覚を基準にしか色々云えないんだけどね

なんかわかんない
2003年2月7日(金) 
 もっとも、批判の声は大きいけど需要は少ないから、評論家なんてのは割に合わない商売だと思う。それこそ、言論によって 利権誘導しなきゃならない立場の人以外、敢えてやる必要はないんじゃないかな、と。あとは、唐沢俊一や東浩紀のように、自分の歴史 を絶対的な正史にしたいという権力志向や浅田彰への復讐といった、善悪すら超越したような強烈で個人的な動機が無いと、プロとして 続けていくのは辛いような気もする。結局、政治力を支えるのは気力と体力なのだから。
2003年2月1日(土)
 ふと、今の技術力で『Little Computer People』があったら、と妄想してみる。多分フルポリゴン(でもオヤジ)。

・起きがけに冷蔵庫から取り出したパックの焼き鳥をレンジで温めて発泡酒で一杯。
・退屈そうにしているので贈り物をしよう。
・贈り物の中身はオーロラプロジェクトのAV。
・大ハッスル。でも、その反動でしばらく寝込む。
・玄関のゴミ袋がそろそろやばいこと になっているので、ゴミ出しをさせよう。
・ふと、カメラを頭上に合わせると髪の上にポテチのカスらしきものが。
・風呂場は古雑誌で 埋もれているので使用不能。
・よく見ると『プチパンドラ』や『ジ・アニメ』や『SFアドベンチャー』や『マシンヘッド』だった。
・お もむろにアニメのLDを見始める。アニメは『ライディング・ビーン』。
・また贈り物をしてみる。
・今度の中身は『網状言論F改』。
・開けた途端、窓から放り投げる。

 パッケージイラストには柳沢きみおを希望。

2003/02/06
のこされたことばのかけら

2月2日 日曜日

『網状言論F改』 東浩紀編 青土社
 この本についてさわりを説明しようと思うと微妙に時間がかかる。ええと、元々は 東氏が本人のサイトで企画した仮想討議の名称。斎藤環氏の『戦闘美少女の精神分析』( 太田出版/昨日私が購入した本です)を出発点として、オタク系文化についてさまざまな立場の論者が集まって討論する場を設ける、というのが最初 の意図だったそうだ。そのWeb版の「網状言論」を受けて今度は実際に参加者を一堂に会して公開のシンポジウムが行われた。それが「 網状言論F」。でもってこの本『網状言論F改』はそのシンポジウムでの参加者のプレゼンテーション、その後行われた鼎談などが収 録されている。
 オタクとセクシュアリティに関する話はなかなか面白かった。とはいえ読んでいる側(私だ、私)の知識が圧倒的に足りてな いため、こういうイベント本としての常で読みやすいのにもかかわらず理解できている内容は箸にほんの少しかかる程度ではないかと思われる。
  私は東浩紀氏の言動が面白い(ぶっちゃけな表現ですみません)と思っていてなんとなくサイトなども追っかけているのだけれど、この本に関して は東氏の発言は抑えめで、他の参加者の発言、対話などがなかなか興味深かった。それぞれの立場、拠って立つ処などが違っているから、それでも 共通項があったり、違っていたり、一方がもう片方に触発されてたり、ひとりではなし得ないコミュニケーションのかたちが見えていていい(って これに限ったことではもちろんないし、とても内容どころの感想でないのでお恥ずかしい限り)。言葉の定義は難しい。でも私も「動物的」にはち ょっと異論あるかも。はまるときのニュアンスもすごくよく分かるだけにこの矛盾。


2003/02/05
ゆきちのホームページ 日記
January 30 2003

 網状言論F改

こちらによると、植芝理一がこの本の中で言及されているそうです。今度、買ってみようかと。

本日のツッコミ(全2件)

yatsu (January 30 2003 23:39)

『網状言論F改』の東浩紀とか斎藤環とかオタク系批評はすごくおもしろいんですが、自分の場合マンガを読まないので、イマイチわからないところもあります。マンガ/アニメが好きな人が読んだらもっとおもしろいんだろうな。

ゆきち (January 31 2003 08:53)

なんか、その点で話題ですね。僕も最近の漫画やアニメは知らないのですが、植芝が言及されているとあれば、読まないわけには行きません。ちなみに、植芝理一というひとは、(「京極夏彦」+「荒俣宏」)÷「ロリコン・アニメ・特撮」位に考えてもらえれば、結構です(笑)。奇想好きには、うってつけの漫画家です。


2003/02/04
つれづれなるマンガ感想文      (メールによるサイト情報提供に感謝します)
【書籍】・「網状言論F改」 東浩紀:編著(2003、青土社) [bk1] [amazon]

「オタク」、「セクシャリティ」、「ポストモダン」などについて言及した本。
2001年9月のプレゼンテーションに加え、東浩紀・斎藤環・小谷真里の語り下ろし鼎談、伊藤剛、永山薫による書き下ろし原稿を収録。

プレゼンテーションはそれなりに意味がわかったのだが、その後の鼎談になるとサッパリわからなくなった。伊藤剛、永山薫両氏の比較的現場に根ざしたと思える文章は理解できるのだが。これが「ピンの上に天使が何人止まれるか」とかいうやつか……?

疑問やひっかかりもいちいちあるが、それはいちいち上げていたらキリがないし、自己言及されている部分もあるし別にイイと思う。

しかし、鼎談の雰囲気としては、東浩紀が他の二人に「あなた方は政治的だ」と言って二人が否定したら「否定したところが政治的だ」とかなんとか言ってて、もうそこら辺でわけがわからなくなって、という感じか。
「愛國戦隊大日本」(私は未見。写真とかしかない)に政治的意味があったかなかったか、つくった本人はそう思っていなかったんだけど実はあったんだとかなかったんだとか、そういう議論も、もうどうでもいいです。
そりゃ、あると言えばないし、ないと言えばないということになっちゃうでしょ。

――しかし、岡田斗司夫も大塚英志もあえて抑圧してきた「抜き」の問題を、私が身も蓋もなく暴露したという歴史的経緯から逆戻りするべきじゃないと思うんですけど
(斎藤)
……というくだりでは、そうかー、そういうこと自分で言っちゃうんだー、などと思った。確かに評論分野では見て見ぬフリをされてきたとはいえ、「現場」では自明のことであったし、私個人は何も精神分析的な方法論ですることはなかっただろうと思っている。おかげでかえってわけがわからなくなった部分はあるしなー。

いくつか参考、勉強になった部分もあったが、それも言及するのはめんどうくさいからやめておく。

なぜ心なしかなげやりな文章になっているかというと、この本全体がちょっととっちらかりすぎている印象だからだ。
「オタク」というテーマでなかなか絞りきれていない印象。

私個人としては、「オタク」とか「萌え」をテーマにして、本書のように若干抽象的な議論をするのはもう限界だろうと感じた。これ以上は、ますますわやくちゃになって問題を複雑化するだけだろう。
「オタクとは何か」という問いでこれだけ答えが散逸してしまうという理由は、仮説としては3つある。

・「オタク」は、過去の文献が散逸してしまい、あるいはフィールドワークがなっていないために、分析するにたる資料が完全には揃っていない。

・「オタク」は、まだ時間軸で見て完成、完結していないために、将来的に出て来るであろう未知の要素抜きの分析には限界がある。

・「オタクとは何か?」という問いそのものが間違っているから、答えが出ない。

上記3つのうち、1番目と3番目については本書も言及がある。しかしそれは単に「こういうことも考慮に入れていますよ」というエクスキューズにとどまっている。

私個人が最も足りないと思うのは、当事者インタビューとか過去にどういうアニメ作品がどれくらい観客を動員したとか、どういうイベントが行われたかといった歴史的事実の把握だ。
たとえば本書の中で「80年代ロリコンブームは、最初はシャレだったが、後に本当にロリっぽいマンガの絵で抜けるヤツが出てきた」という発言が出てくるが、このあたりの雰囲気を今実感しようとするのはたいへんむずかしいだろう。
ただ、瓢箪から駒が出たような、たとえば最初にケネス・アーノルドが見た「空飛ぶ円盤」が円盤型をしてはいなかったのに後の目撃例に円盤型が頻出したというようなたぐいの問題でもない。

事実、私は80年当時は中学生だったが、それまでの官能劇画っぽい絵ではない、当時だったら高橋留美子みたいな絵柄のマンガにエロスを感じるというのはオタクでないやつでも同級生はみんな普通に受容していた。
そういう意味から言っても、本書に書かれているとおり、みんなもっと「自分語り」をすべきなのかもしれん。まあケムったいもんだが、ウザさから言えば「おれ評論」とどっこいどっこいだと思うしね。

話はそれるが、「オタク」というのは名付けられたときからマイナスイメージである。「オタク」と聞いて「ああ、気持ちの悪いあいつね」と特定の知人が思い浮かぶ人も多いと思う。それだったら、センスエリートとしてのオタクではなく、本当にそういう「一般的に気持ち悪い人」50人くらいにインタビューしてみたらどうだろう。
絶対何かがわかると思う。「オタク論」に必要なのは、考察と同時に「資料となる数を集めること」であると思うし。

「本当に気持ち悪いタイプのオタク」に、実際に話を聞いてみる企画は私の知るかぎり意外なほどない。オタクにまみれている人にとってはそういう人こそ「避けたい人」だし、そういう人の話はたいていつまらないし。
しかし、気づいてみると「いわゆる気持ち悪い人」は、オタクコミュニティの中では「困った○○さん」みたいになっていて表面には出てこないし、オタクでない人にとっては、オタク内ではわりかし普通の人でも「キモイ人」になってたりする。
言い方は悪いがトライブにおいて内部、あるいは外部を見て認識される、一種の妖怪みたいになってると思う。
で、50人くらいインタビューすると、案外共通点がないことがわかったりするんだよね。妖怪=都市伝説なんてそんなものだよなあ。

実際にアイドルオタク4、5人の「気持ち悪い人」にインタビューしたのが金井覚の「アイドルバビロン」[bk1] [amazon]で、検索かけたらまだ手に入るらしい。斎藤環が「抜きを明らかにした」と自画自賛できるならば、こちらも「キモイ人」に体当たり取材したという点で個人的には意義深いと思うんだけどなあ。
「ゴミ屋敷の人」とかそういうのはわりとトピックになるけど、そうじゃなくてもっと微妙な線をついていたと思うし。

あと、「網状言論F」については、「モーヲタ」の生態も対象にいれれば、まだ前進的な感じになるかなと思いました。そういう意味では、オタクもまだまだ現在進行形だね。

などと、まとまりがないまま、おわる。

・「動物化するポストモダン」感想

・「動物化するポストモダン」感想追記

・「戦闘美少女の精神分析」感想

(03.0201)



2003/02/02
スナオの読書記録
東浩紀編著『網状言論F改』(青土社、2003年)読了。
副題は「ポストモダン・オタク・セクシュアリティ」。
執筆者は東浩紀、永山薫、斉藤環、伊藤剛、竹熊健太郎、小谷真里。
永山薫「セクシュアリティの変容」「越境する蜜蜂」がよかった。
永山は年間1000冊のエロ漫画を読むらしい。男性むけショタ(可愛い男の子との絡み)の話が実に興味深い。
エロ漫画は、これまでになん冊読んだだろう。20〜30冊といったところだろうか。

昔やっていたバイトでの話(実話である)。
一緒にレジに立っていた女性A(2歳年上)は、彼氏(Aより10歳年上)の部屋を掃除していて、数十冊のエロ漫画を発見したらしい。Aは、彼氏が「エロ本なんか持ってない」といっていたのを信じていたため、ショックをうけた。スナオになぜかこんな質問をする。

「○○君(スナオの本名)は、漫画と写真、どっちが好き?」

スナオの答えは「どちらかというと写真ですね」だった。

2003/01/06(Mon)

2003/02/01
TFJ's Sidewalk Cafe: Conversation Room      (メールによるサイト情報提供に感謝します)
- 弦巻, 東京, Sat Jan 18 2:41:29 2003

稲葉 振一郎インタラクティヴ読書ノート・新本館(暫定) を読んでいて、 唐沢 俊一 の 裏モノ日記 の2003年1月15日分に、以下のような記述があることを知りました。

これはエヴァンゲリオンブームの中での東氏たち一派の言説に共通するものだが、彼らには、エヴァが、またヤマトが、そこに至るまでの膨大な量と、それぞれの特質を持ったアニメ作品群、いや、それらをふくめたマンガ・SF・特撮映画という娯楽文化の基盤に支えられて出現し、そのピーク的作品として喝采されたという事実がまったく理解できていない。いや、理解しようとしない。なぜ理解しようとしないのか。それは、知識不足なまま彼らが打ち立てたエヴァ(或いは彼らが好きな他のオタク的作品)に対する独善的理論が、その背景的な作品や成立事情を調べていくに従って成立しなくなっていくことが、彼らにとって都合の悪いことであるからに他ならない、と私は理解している。そうとでも思わなければ、彼らはただのバカではないか。

(中略)

今のわれわれ(オタク 文化に興味を持つ者たち)に必要なのは、それらの資料・証言を照らし合わせ、異同 をただし、それらの中から、日本にどのような過程を経てオタク文化が発生し、どの ような筋道をたどって現在に至るのかという“正史”を作り上げることだ。その上で なら、例えば性の問題、例えばフェミニズムの問題というような個々の分野における分析も有効化するだろう。今の状態でそれを行うのは、患者の血液型や病歴も調べずにいきなりメスをふるうに等しい蛮行である。

僕は、東 浩紀 の本は、 『動物化するポストモダン』 (講談社現代新書, ISBN4-06-149575-5, 2001, book) しか読んだことが無いですし、唐沢 氏が槍玉に挙げている他の人の文章は読んだことがありません。しかし、『動物化するポストモダン』を読んだときに感じた (例えば、去年のこの発言この発言で「スーパーフラット」「データベース消費」といった言葉を通して、軽く言及しているような) 漠然とした違和感を、ハッキリと言ってくれたようで、なるほどと思うところがあります。というわけで、いろいろ誤解しているかもしれないですし、多分に我田引水になってしまう気もしますが、もう少しコメント。 同じように感じている人がいるのかも、と、ちょっと嬉しかったので…。

『動物化するポストモダン』を読んでいると、アニメやマンガ、ゲームなどを (モダニズムを批判するネタとして) ポストモダンな文化として祭り上げようとしているのではないか、と、ふつふつと思ってしまうんですよね (この発言で述べたように)。その一方で、例えば、「少年がものを考えるよう」に描くことを可能にしたアニメの技法・約束事、そういったアニメの技法・約束事の定着を支えた制度、といったものの変遷を歴史化して浮かび上がってくるのは、むしろ、アニメにおけるモダニズムだと思います (この発言この発言で述べたように)。そういうことを考えると、唐沢氏の「独善的理論が、その背景的な作品や成立事情を調べていくに従って成立しなくなっていく」という指摘は、さもありなん、と感じるところもあります (唐沢 氏の指摘が、そういうことを指しているとは、判りませんが)。 1990年前後の techno / house 流行初期に、「house → 引用・匿名性 → ポストモダン」みたいな物言いが流行ったことを思い出してしまいますね…。僕には同じような話に感じてなりません。

しかし、美術館でマンガ、ゲームなどを取りあげた展覧会を観る度に 散々言ってきていることですが。そういったものをアカデミックに (大学や美術館のような場で) 取りあげようとする際に、系譜立てたり体系的に分類したりする (“正史”を作ると言っていいのかな) ことが非常に軽視・無視されているように感じることが多いです。ま、僕も、系譜化・体系化に必要となる地道な作業に寄与しているわけではないので、あまり強いこと言えた立場じゃないとは思います。しかし、趣味でハマっているだけの人ならそれでいいかもしれないですが、アカデミックな人たちがそれでいいの? と思うときもあります。うむ。もちろん、歴史主義的なアプローチに対する批判もあると思いますし、その点から歴史化を避けているのかもしれないですが…。

ま、マンガに関しては、 NHK BS『マンガ夜話』 を観ていても、戦後日本マンガの発展史みたいなもののおおまかな合意が感じられますし、夏目 房之介 が「夏目の目」でダイアグラムを示したのを観たこともあります (本になっているのでしょうか?)。そういう意味では、この界隈ではマンガが最も歴史化がするんで入るのかなぁ、と思ったり。


2003年1月分はこちら